湊かなえ初心者が読む、『ポイズンドーター・ホーリーマザー』
私にとってこの本は、初、「湊かなえ」だ。
小説の人気が高い上、デビュー当初から多くの作品がドラマ化・映画化されているにも関わらずだ。
なぜ、これまで一作も読まなかったのか。
それは、怖かったからだ。
私は小説にはエンターテイメント性を求めることが多い。
だから自分の送っている日常生活とはかけ離れていればいるほど、そのストーリーや登場人物に想像力を働かせ、純粋に楽しむことができる。
反対に人の暗い部分を描いた本は苦手だ。
誰しも、自分に何かしら嫌な部分があることを認識していると思うが、そのダークな部分を正視するのは嫌だと考えているはずだ。
そして、それを浮き彫りにし突きつけられるのが、湊かなえ作品だという認識が私にはあった。
読んでいないにも関わらず。
果たして読んでみると、やはり、人の思考のマイナス部分がつぶさに描かれていた。
例えば人をうらやむ気持ちにも色々な気持ちの移り変わりがあるということに気づかされる。
攻撃的になるとき、反対に穏やかな気持ちで過ごせるとき。
また、他人に対し、これなら勝てるという部分を探して鼓舞するとき。
相手の弱点を見つけると、徹底的にその部分を突いてたたきのめすとき。
しかし、人の嫌な部分をえぐり出すだけの作品だと思ったら、最後の最後に涙することもあった。
ミステリー的要素も含まれていて、最後の最後まで結末が想像できない。
決して奇想天外なストーリーではないのに、先の展開が読めない面白さに引き込まれた。
湊かなえ作品の人気の理由がわかった気がした。
自分が正しいと考えることが、多数決を取ったときに主流な考えになり得るわけではない。
1つの物事に対する見方は、私が思っている以上に多様なのだということに気づけた。
タイトル以外の短編小説が面白く、最後の主題小説には、最初少し物足りなさを感じた。
しかし読み進めていくうちに、著者自身が疑問に思っている風潮があり、それに一言物申したいと思っているのではないかということを強く感じた。
ネタバレになるのであまり詳しくは書けないが、それは最近増えてきた
「私、被害者なんです。」
「私、○○に支配されてきました。」
というような言葉だ。
今まで弱者であり、泣き寝入りするしかなかった立場の人間が、自らが受けた仕打ちなどを公表しやすくなったのは良いことだと考えるのが、今の社会の流れだと思う。
しかし、提示されたストーリーが必ずしも正しいとは限らないというところにまで思いを馳せることはほとんどない。
誰かが作り上げたかもしれないシナリオに対して私達は反応し意見する。そして見ず知らずの加害者を攻撃する。
一人一人の力は弱いけれど、それが集まることで攻撃力の高い凶器になり、集められた凶器だから一人一人に罪の意識は無い場合が多い。
どう頑張っても、加害者(とされる人間)から逃れることができなかった被害者というのは勿論いる。
しかし、自分は被害者だと思い込むことで、思考停止してしまっている人も多くいるのではないかと感じた。
戦うことは辛いけれど、他人をこうであると一方的に決めつけるのは、どんな立場であっても良くないことなのだ。
正論すぎるかもしれないが…。
新しい考え方が世の中に広まり主流となると、それこそがはるか昔から未来永劫、正しい考えなのだと思い込みがちだ。
私もきちんと自分のものさしで考えよう、人の意見に流されないようにしようと思いながら、知らず知らずのうちに、多数派に染まっているような危うさがあると思う。
「自分だけは絶対だ」という思い込みこそが危険なのだ。
改善する努力をすることなく、また話し合うことなく、相手の考えを想像し断定することは悪なのだと気づかされた。
自分の物差しでしか測れなければ、人の気持ちを推しはかるのは本当に難しい。
次は湊作品の長編に挑戦したい。
それは、より人間の本性に迫るストーリーなのか。
楽しみ半分、そしてやはり、怖さも半分ある。