『よるのばけもの』
■いじめとわたし
疾走感のある楽しいストーリーと思い読み始めましたが、その期待は裏切られました。
テーマはいじめ。
いじめ問題は何十年も、もしかしたら何百年も前からなくなることがない、重く難しいテーマです。
私はいじめを悪だと思いながらも、進んでそれをテーマにした本を読むことはありませんでした。
なぜ自分と違う者をいじめる必要があるのだろう。許容しなくても、そういうものだとして受け止めればいいだけなのに、なぜわざわざ関わりを持ちトラブルの火種を起こすのだろうと思っていたのです。
結局私は単なる傍観者でしかありませんでした。
いじめに加担しないけれど、気付かないふりくらいはきっとするかもしれません。
自分を守るためなら。
そんな自分のずるい部分を、様々な立ち位置の生徒たちにより思い知らされました。
なぜいじめられることとなったのか、いじめる側にも原因があるのでしょうか。
この物語を読むと誰の目にも明らかなくらい、いじめられる側に非があります。
では、いじめられる側に非があるのなら、他者は「自業自得だ」と言って正義の旗印のもとで、何をしても許されるのでしょうか。
1人を対象に大勢で寄ってたかって、さも自分の判断こそが正しいとばかりに制裁を加える。
積極的であれ、消極的であれそれはリンチです。
人は「悪いこと」に理由を求めていません。
だから、皆に「悪」という烙印を押されたが最後、そこから抜けだすのは至難の業です。
■閉じた社会
学校。特に小・中学校という義務教育の機関は、基本的に自ら選択することはできません。
狭い地域の中の、閉ざされた空間と人間構成は、結束すれば底知れないパワーを生み出すかもしれないけれど、それは逆を返せば底知れない陰湿ないじめとなり、自らの力だけでそこから抜け出すのは、肉体的にも身体的にもかなりの負担となるのではないでしょうか。
この物語を読んでいる間中、ひりひりします。
中学生はとにかく気を使い、空気を読んで生きています。
たかが3年とはいえ、自分の立ち位置を不動のものとする為に、面白いと思うポイント、楽しいと思うことのポイントが皆からずれていないことが、とても重要なのです。
そこには間違いなく、独特の社会とルールがあったという記憶を無理矢理呼び起こされ、軽い不快感を抱きました。
勉強にスポーツに友情に恋愛といったキラキラ輝く青春や頑張りの裏で、間違いなくそのルールは存在しています。
その2面性の只中にいる間はきっと気づかないけど、それに気づいたときそのギャップの大きさに吐き気を覚えます。
中学校生活(だけに限らないとは思いますが)のシビアさは、もう30年も前のことなので殆ど覚えていませんが、空気を読むことが得意でない、不器用な人にとって逃げ場のない試練は、永遠に続くことのように感じられるでしょう。
「今を乗り越えれば」とは、それが過ぎ去ったことだから言えるのであり、何の慰めにも励ましにもなりません。
誰もがばけもの。
でも、ばけもののせいにして考えることをやめるのはずるいかもしれない。
異なる者を受け入れられなくても、真っすぐに受け止めよう。
そんなメッセージを受け取った気がしました。