『すぐそばにある「貧困」』~寛容な自分でありたい~
私が子どもの頃、「貧困」という言葉は発展途上国の人々に対して使われる言葉だったように思います。
また、明らかに手の届かない存在の裕福(=上流階級)の人々に対して自分たちのことを、あまり悲観的な意味ではなく「貧乏」と称していました。
戦時中の我が国の多くの人々の暮らし向きを表す場合でさえ、「貧しい」という言葉を使うことはあっても、「貧困」とはあまり言いません。
しかし、5年くらい前から「格差」という言葉を耳にするようになり、昨年は「子どもの貧困」というフレーズを何度かニュースで耳にしました。
私自身の暮らし向きが豊かとは言えず、先行きの不透明さに不安を抱くことが多いせいでこのような言葉やニュースに敏感になっているのかもしれません。
でも、10年前にはなかった(あまり表に出てくることがなかった)格差や貧困に関する本が書店の目立つ場所に陳列してあるということは、やっぱり「貧困」がより身近になったことの現れなのだろうと思うのです。
『すぐそばにある「貧困」』の筆者である大西さんは、この本を出版されたとき28歳でした。
そしてその若さにして、認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事長という肩書を持っていらっしゃいます。
私は本文を読む前に、見返しに書いてあったこの肩書を見たので、「きっと社会的弱者を放っておけない志の高い人なんだろう。」と思っていました。
しかし、読み始めてすぐにそれが間違いだとわかりました。
筆者は偶然ホームレスの人と関わる機会を持ち、何となく流されるままにボランティア活動に携わるようになったのです。
しかも帰る家こそあれ、自分自身の生活も安定しないバイト生活の身でありながら。
この本はそんな筆者の体当たり的な活動と戸惑いの記録でもあります。
制度や社会に疑問を抱き、今自分にできることを模索し続ける等身大の若者の姿が描かれています。
不平等な社会を糾弾するわけでも悲観するわけでもありません。
筆者にあるのは、怒りや悲しみといった激しい感情ではなく(多少はあるかもしれませんが)、とまどいと、自分はどうすべきかという問いなのです。
筆者は静かに、今の「普通でない者を許容できる社会」であることを願っているのだと感じました。
決して、「普通でない者を許容できる社会」に対する疑問を投げかけたり、そうでないことを責めたりしている訳ではありません。
私は自分自身を、「普通でない者を許容することができる人間だ」と思っていましたが、幾分か、生活保護を申請する人々に対して「努力が足りないのではないか」という気持ちも持っていました。
しかしこの本を読んで、
・本当に困っているのに申請をためらう人々が多いこと、
・住居を持たない人々が申請を受理されて入所する施設に、劣悪な環境のところがあること(寝泊りする場所があるだけ有難いと思えという考えは乱暴だということ)
を知りました。
決して器用とは言えないけれど、ねばりづよくあきらめない筆者の活動の記録を見て、自然にそう思えるようになったのです。
私自身豊かではないし、正直なところ筆者がされているような活動に携わりたいとは思えませんが、
「自分と異なる者を許容する」
ということを今までより意識した生活をしていきたいと思えるようになりました。
実際に行動に移すのは難しいと思いますが…。
テーマ自体は重く複雑で難しいものでしたが、
最後に感じたのは、寛容な、懐の大きな自分でありたいというシンプルな気持ちでした。