『夜行』
もりみーの小説を久しぶりに読んだ。
といっても私は、これまでの著作は初期の頃の作品しか読んでいない。
それなのに、親し気にもりみーと呼ぶ。
これは私の脳内で既に、「森見登美彦=もりみー」というのが定着してしまっているからなので、仕方がない。
さて、私が知るいくつかのもりみー作品内では、めくるめく妄想世界が繰り広げられ、どこまでが主人公の妄想で何が事実であるのかその境界はあいまいだった。
現実と虚構(妄想)の境界線を、ふとした瞬間に見失ってしまう絶妙なバランス感覚が面白かった。
純粋でちょっとおバカな主人公たちが憎めないのが、『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』、『太陽の塔』だ。
そして祭りがキーワードになる作品に、
『夜は短し歩けよ乙女』、『宵山万華鏡』がある。
それらの作品とちょっと毛色が違い、「ちょっとおバカな主人公」を求めていた私がじっとりと嫌な感じを味わったのが、『きつねのはなし』だ。
ねっとりとした、暗い話だったように思うが、実はよく覚えていない。
申し訳ない。
残念なことに(?)今回の作品におバカな主人公的要素はなかったが、
現実と非現実の境界が曖昧なところに、
「ああ、これこそがもりみーなのだ。」
と、1人興奮した。
『夜行』のキーワードは、
「祭り」と「旅」という非日常だ。
「祭り」の生み出す熱気と頭の奥がしびれるような高揚感、何かが起こるのではないかという期待感と、
やはり何かが起こることを少なからず期待している「旅」という二つの非日常が合わさることで、非現実への扉は自然と開かれる。
いつの間にか生じていた日常とのズレ。
そのきっかけが、
理由が、
いつからかが
分からないから怖い。
漠然としたものを恐れ、理由を求めてしまう私は現実主義的すぎるのかもしれない。
きっと、目に見えるもの、体験したことに無理に意味付けする必要はないのだろう。
肩肘張らず、時にはあるがまま受け入れ、流されてみたいと感じた。
そうすることで違う世界と自分に気付けるかもしれない。
物事には必ず表と裏がある。
この本のテーマも夜と朝。
祭りで際立つのはその明るさと暗闇。
どれも対になっている。
どちらか一方だけでは存在し得ない。
表と裏といったとき、私は表が「正」のように考えてしまっていたのだが、
そういう考え方は間違っているのかもしれない。
どちらもそこに正しく存在する。
その事実を受け入れれば、
世界はもっと単純になり、
生きやすくなる。
あるがままを受け入れ、
もっと楽しく
もっと楽に生きていきたい。