コンビニ人間
1度でもコンビニでアルバイトをしたことがある人なら誰もが、
「わかる、わかる!」
と言ってしまうような緻密さで、コンビニの業務が描かれ、従業員たちの様子が描かれ、粛々と繰り返されるコンビニの日常が描かれている。
今やコンビニは日常の風景の一つなので、そこにあることが普通だし、様々な気配りや分析が施されているサービスを、いちいち有難く感じることもない。
便利であることがスタンダードなのだ。
そんなコンビニのアルバイト店員を長年続けているのが、主人公の恵子だ。
恵子の人生はどっぷりとコンビニに漬かっているのだけれど、その理由は「普通」の人とはちょっと違う。
恵子は「こちら側の世界」に生きてはいない。
ある意味とても合理的な考え方をしているのだけど、普通の人から見れば突飛すぎる行動にでることがあり、それが原因で周りの人間は恵子との付き合いには距離を置いてしまう。
周りの近しい人間は恵子を治そうとし、恵子自身も治らなければと努力したり、身近な人を模倣することで、普通を演じたりしてきた。
私は、人が「こうあるべき」という枷は、学校という自分では選択肢のない狭い枠の中に押し込められているときが、最も大きいと思っていた。
けれど、実際は齢を追うごとに枷は増えていく。
年齢を重ねるごとに次々と訪れるステージには、
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などがあり、さらにそれらを細分化することもできる。
またそれぞれに適齢期というものがあり、その枠組みから外れていると、何となく会話に入りづらいし、そうでない者を「こちら側」に引き込もうとする空気がある。
決まりはない筈なのに、見えない糸でがんじがらめにされているようだ。
だから息苦しさを感じることもあるだろう。
そんなとき、ドロップアウトするのは実はとても簡単で、一瞬にできてしまう。
でも、人は1人で生きてはいけない。
周囲から向けられる好奇の目にその後ずっと耐えることができるのかを自問自答した結果、普通を装うことを選択する人は多いだろうし、正しくはなくても懸命だと思う。
以前より社会は多様性を容認してきている。
昔はその存在自体が認められなかった、ちょっと皆とは違う部分がある人を表す名称が付けられ、少しずつ知られるようになった。
けれど、そのような人達は声高に自分たちの存在をアピールすることはない。
普通の人がわざわざ自分の存在をアピールしないように。
だから気づかないうちに、傷つけてしまっているかもしれない。
恵子に悲壮感はない。
恵子が考えているのは、このシーンでは自分はどう受け答えすべきかということであって、感情を押し殺している訳ではなく、感情という器は真っ白で、その時の状況によって書き換えられるものだ。
それを
「かわいそう」
「辛そう」
と思うのは、勝手なのかもしれない。
「かわいそう」、「何とかしなきゃ」と思いお節介をやくから、余計苦しめることになるのだ。
私達にできることは、ただ受け入れることなのだ。
でも、人は常に変化を求めている。
だから、自分と異質なものを黙って受け入れることは案外難しい。
自分はただ生きているだけで、「居場所がない。」と悲嘆にくれている人もいれば、反対に攻撃的になる人も大勢いるだろう。
人は今の自分に見合う居場所を常に求めている。
ムラ社会から外れてしまったものは、社会不適合者という烙印を押されてしまうという、厳しい現実が待っていたとしても。
「治らなくてはならない」恵子を受け入れてくれたのは、コンビニだった。